関東学院の沿革
関東学院の歴史

関東学院第1の源流 横浜バプテスト神学校
関東学院の歴史には3つの源流があります。その第1の源流が、1884(明治17)年に横浜山手に創設された「横浜バプテスト神学校」です。学院の「奉仕教育」の重要な切り口をつくった初代校長アルバート・A・ベンネットは、1879年に横浜に到着し活動を開始するや、日本の伝道は日本人の手でなすべきだと痛感し、1884年春にバプテスト初代宣教師ネイサン・ブラウンの自宅で開かれた宣教師会議において神学校設立を提案しました。この案は満場一致で可決され、同年10月6日、十分な援助もないまま横浜山手64番の宣教師館を用いて5名の学生で始められましたが、宣教師たちの献身的な働きによって継続されていきました。
関東学院の創立記念日は、この神学校が創設された10月6日です。関東学院創立記念日(10月6日)からベンネット召天日(10月12日)までを学院創立記念週間と定め、その最終日の12日に横浜外国人墓地に眠るベンネットを初めブラウン、テンネー他の関東学院草創の礎となった先達を覚え、学院主催により横浜外国人墓地記念会を毎年開催しています。

横浜バプテスト神学校初代校長 アルバート・A・ベンネット
アルバート・A・ベンネット Albert Arnold Bennett(1849~1909)は、1879年12月にアメリカ・バプテスト・ミッショナリー・ユニオン派遣の宣教師として来日。日本伝道は日本人によってなされるべきであると、来日の翌年には自宅で説教学を教え始めました。1884年10月6日、横浜バプテスト神学校を山手に創設し初代校長となり、以来25年間に亘りバプテスト神学校教授として学生を教導しました。
創立25周年式典の翌日(1909年10月12日)に召天し、横浜外国人墓地に埋葬されました。墓碑銘に“He lived to serve.”と刻まれているように、ベンネットは文字通り「生涯にわたって奉仕の人」でした。くしくもこの言葉は、関東学院の校訓「人になれ 奉仕せよ」とまったく同じ精神を言い表しています。彼は教師、宣教者、研究者として優れた業績を残す一方、人力車夫の生活擁護のためのパンフレットの刊行や、三陸大津波の救援活動などを行いました。その献身的奉仕に対し、また、外国人居留地の救援代表として、日本帝国政府から金杯を授与されました。ベンネットは謙虚な人で、また、日本人に間違われるほど日本語が堪能であり、日本人に愛され、讃美歌213(讃美歌21では98番)に「神のひとよ」と歌われています。多くの人の愛唱賛美歌である「讃美歌48番(讃美歌21では496番)「しずけき夕べの」は、彼の作詞、夫人メラの作曲によるものです。

日本におけるバプテスト初代宣教師 ネイサン・ブラウン
アメリカ・バプテスト・ミッショナリー・ユニオン派遣の日本におけるバプテスト初代宣教師ネイサン・ブラウン Nathan Brown(1807~1886)は、1873(明治6)年、65歳のときに夫人シャーロッテと来日しました。
来日前は、ビルマおよびインドのアッサムで宣教師として働き、1848(嘉永元)年、アッサム語で『新約聖書』を完成。しかし現地で令嬢と令息を病気で失い、1855(安政2)年には本人も健康を害して帰国。その後本国ではリンカーン大統領に奴隷解放を進言するなど、奴隷解放運動を推進しました。
来日後、驚異的な語学力で日本語を習得し、1879(明治12)年には、日本で最初の新約聖書の全訳『志無也久世無志與』(しんやくぜんしよ)を出版。ギリシャ語の各種写本を参照し、本文の意味を忠実に、しかも一般の人々に読まれる平易な日本語に訳出しました。この聖書の改訂をブラウンから依頼されたベンネットは、最終改訂版を出版しました。
1884(明治17)年には、関東学院の源流である横浜バプテスト神学校の設立会議を主宰し、同年山手に開校以降、召天時まで支援したことから、関東学院においては学祖と呼ばれています。横浜外国人墓地の墓碑に刻まれている “God bless the Japanese.”という言葉は、外国人が生涯と死を通して示し、日本人のために捧げた祈りです。彼の祈りは、学院の校訓「人になれ 奉仕せよ」に通じています。
現在は「日本バプテスト横浜教会」と改称されている横浜第一浸礼教会は、日本で最初のバプテスト教会(日本で2番目のプロテスタント教会)で、初代牧師はブラウン、二代牧師はベンネットです。

源流(横浜バプテスト神学校)記念板
「1884年10月6日、ここ山手でA・A・ベンネットが横浜バプテスト神学校を設立した。関東学院キリスト教教育の源流はここに発する。」と刻まれたこの源流記念板は、2009(平成21)年に学院創立125周年記念事業として横浜山手に建てられました。

東京中学院(後年、東京学院と改名)
開国以来、東京築地外国人居留地には次々とミッションスクールや神学校が設立されました。バプテスト派宣教師たちは、日本人牧師養成のために神学に加え幅広い教養を身につけさせる必要を感じ、1895(明治28)年、普通教育を教授する学校を築地居留地・新栄町六丁目42・43番に設立しました。これが関東学院の第2の源流となる「東京中学院(Tokyo Baptist Academy)」です。
明治期の後半の日本政府は国家主義体制の教育を推し進めており、このようなキリスト教学校教育の苦難の時代に東京中学院は設立されたのです。校舎は一時的な仮校舎で、設立2年後の1897(明治30)年9月には台風のため校舎の屋根が吹き飛ばされ、一時隣地の他教派の神学校を借りて授業をするような状態でした。
アメリカ・バプテスト・ミッショナリー・ユニオンの海外戦況担当主事であったダンカン博士は、校地と施設を整備・拡充するための支援計画を立てていました。東京中学院の良き理解者であったダンカンは積極的な支持者でもありましたが、日本へ旅立つ直前に病に倒れ、東京中学院の新しい施設を見ることなく1898年(明治31年)に召天しました。寄宿舎が新築され所在地を築地から牛込左内町に移したのは、翌1899(明治32年)のことでした。

東京中学院初代校長 渡瀬寅次郎
札幌農学校の第一期生として初代教頭W・S・クラーク博士の教えを受け、「イエスを信ずる者の契約」に署名しクリスチャンとなった渡瀬寅次郎(1859~1926)は、。1877(明治10)年4月16日に農学校を離任するクラークを見送りに行き、クラークから直接(「少年よ、大志を抱け」)の言葉を聴いた一人です。
1887(明治20)年に水戸中学校長として在任時に、英語教師で、後に東京中学院の設立に尽力することとなるアーネスト・W・クレメントと親交を結びました。1895(明治28)年9月東京中学院の設立の際にクレメントから懇望され院長に就任。「学校は工場ではない、数よりも質である」を信条とし、少数精鋭主義による実力養成とキリスト教精神による人格教育にあたりました。

東京中学院設立者 アーネスト・W・クレメント
1890(明治23)年12月の宣教師会議。この会議で、基礎教育・普通教育のための学校を組織することが決定されました。その責任を担うことになったのが、1887(明治20)年に招聘を受けて来日し、渡瀬寅次郎校長のもとで水戸中学校の英語教師を4年間務めたアーネスト・W・クレメントErnest Wilson Clement(1860~1941)です。
学校設立準備のため1891(明治24)年に一時帰国。1894(明治27)年にアメリカ・バプテスト・ミッショナリー・ユニオンから派遣されて宣教師として再来日した翌年、東京築地の外国人居留地に東京学院を設立しました。水戸で親交を深めた渡瀬寅次郎を学院長として迎え、クレメントは教頭として実際の経営にあたることになりました。1899(明治32)年には私立学校令により設立願をヘンリー・タッピングと連名で提出。このときに東京学院と校名を改めると同時に、所在地を築地から牛込左内町に移しました。
渡瀬から引き継ぐ形で1903(明治36)年に学院長に就任したクレメントですが、学院の運営方針の転換に伴い学院長を辞した後、旧制第一高等学校(今日の東京大学教養部)の英語教師に招かれ16年間教鞭をとり、同校の新渡戸稲造と深い親交を持つこととなりました。
1897(明治30)年の台風で校舎兼宿舎の屋根が飛ばされた時には、クレメントは夜もほとんど眠らず、片手に傘、片手にランターンを持ち、親身に学生の世話をしたというエピソードが残っています。後の関東学院長、柳生直行は、「これこそまさにわが関東学院の建学の精神を象徴する」と語っています。

東京学院設立者 ヘンリー・タッピング
ヘンリー・タッピング Henry Topping(1857-1942)と夫人のジュネヴィーヴは、1895(明治28)年にアメリカ・バプテスト・ミッショナリー・ユニオン派遣宣教師として来日しました。タッピングは、東京学院の設立願に設立者としてクレメントと名を連ねています。東京中学院と東京学院の教授を務め、関東学院として再出発した時にも教鞭を執りました。温厚な人柄のゆえに「ファーザー・タッピング」として人々に尊敬されました。また、後年に中学関東学院の初代院長に就任する坂田祐をキリスト教に導いた宣教師でもあります。
1907(明治40)年、タッピング一家は岩手県盛岡に活動の場を移します。県立盛岡中学校(今日の盛岡第一高等学校)で英語教師と盛岡浸礼教会の牧師を務めていたとき、詩人・童話作家の宮沢賢治は学校で彼から英語を習い、教会ではバイブル講義を聴講しました。宮沢賢治はタッピング家族とも親交があり、盛岡城跡公園(岩手公園)内には、一家を詠んだ詩「岩手公園」の刻まれた詩碑があります。関東学院大学の横浜・金沢八景キャンパスにあるタッピング一家を記念する池の中には、2006年3月に新設された「タッピング・ポンド」銘板が立っており、そこにもこの詩が記されています。
タッピング一家は関東学院と関係が深く、ジュネヴィーヴ夫人も親日家で「マザー・タッピング」として多くの人達から慕われていました。令息ウィラードは戦前と戦後、関東学院で教壇に立ち、後年には理事も務めました。夫人エヴェリンも教授を務めました。令嬢のヘレンは日本のYWCA活動に従事し、後にキリスト教社会運動家となった賀川豊彦の秘書を務めました。賀川が世界的に有名になった蔭には、ヘレンと老タッピング夫妻の献身的な働きがあったのです。

東京学院
東京中学院は1899(明治32)年に牛込左内町に移転し、校名を東京学院と改めました。校地は市谷佐内坂の上、高台の校地は3段に分かれ、上段に校舎及び宣教師館、中段に運動場と寄宿舎、下段にテニスコートと炊事場等が設けられました。アメリカのバプテスト諸教会とダンカン博士の妹のロバート・ハリス夫人からの出資を受け、学校の敷地購入や建物の費用に当てられました。ダンカンの功績を称え、東京学院は「ダンカン・アカデミー」の英語名で呼ばれるようになりました。

関東学院第2の源流記念碑
「1895年9月10日、ここ築地居留地42、43番地で米国バプテスト伝道協会が東京中学院を設立した。関東学院教育の源流はここに発する。」と刻まれたこの源流記念碑は、2009年に学院創立125周年記念事業として東京築地に建てられました。

関東学院第3の源流 私立中学関東学院
関東学院の長い歴史の中で、1919(大正8)年は大きな意味を持つ年となりました。この年の1月27日、関東学院は横浜開港記念会館で設立披露会を開き、チャールズ・ B・ テンネーを設立者、坂田祐を初代院長とする、男子のキリスト教教育に特化した学校を再び横浜に開校しました。これが第3の源流であり、「関東学院」の名が誕生した瞬間でもあります。
関東学院が横浜に中学部を開校する少し前、明治政府は「文部省訓令第一二号」を発令し、教育勅語による日本国民への精神教育の徹底を図るため、認可校での宗教教育を完全に規制しました。しかしそのような中、関東学院はキリスト教を土台とする教育を貫き、認可校の特権を敢えて棄て、校名を「私立中学関東学院」として開校しました。
写真は、関東学院として初めて建造した寄宿舎です。

チャールズ・B・テンネー(東京学院長/関東学院設立者)
チャールズ・ B・テンネー Charles Buckley Tenny(1871~1936)は、1900(明治33)年にアメリカ・バプテスト・ミッショナリー・ユニオン派遣の宣教師として来日し、1908(明治41)年には横浜バプテスト神学校の教授に。その後日本バプテスト神学校校長や、関東学院の第二の源流である東京学院長を歴任しました。
東京学院理事長在任時の1919(大正8)年、学院の発展のために東京学院の中学部を閉校。横浜に私立中学関東学院を設立し、理事長に就任しました。テンネーは中学関東学院の設立者・理事長として学校の方針を「日本人を教育する日本の学校」と掲げ、坂田祐を院長に任命しました。関東大震災で崩壊した校舎を再建するため坂田を伴って帰米。募金活動を行い、学院の復興を成し遂げました。
1927年(昭和2)には財団法人関東学院を組織し、東京学院の高等学部(社会事業科、商科)、神学部を関東学院に移管、院長に就任しました。中学関東学院も学院の組織に入り、中学部と改称しました。その後テンネーは激務のため健康を害し、1930(昭和5)年に帰米、1936(昭和11)年に召天しました。
テンネーは、優れた教育者で、有能な教育行政家でもありました。同時に芸術家としての素質もあり、オルガンの演奏や、作詞など、多方面にわたって才能を発揮しました。関東学院のカレッジ・ソングは彼の作詞・作曲によるものです。

初代院長 坂田祐
白虎隊長日向内記の孫として秋田県毛馬内大湯に生を受けた坂田祐(1878~1969)は、経済的な事情で小学校を中退した後、不老倉鉱山で働き始めました。しかし向学心が強い坂田は鉱山での職を辞し、上京して陸軍騎兵学校を卒業、陸軍兵学校教官となります。この頃キリスト教に接し、宣教師ヘンリー・タッピング主宰のバイブルクラスに出席、四谷バプテスト教会の会員に。その後、東京学院に入学したものの、まもなく日露戦争に従軍し、戦争の悲惨さを体験。非戦主義者となって帰還しました。
キリスト教のために献身しようと決心し、東京学院で再び学んだ後に31歳で第一高等学校に入学。この時、内村鑑三の聖書研究会の会員になり、南原繁(後年の東京帝国大学総長、坂田祐著『恩寵の生涯』に序文を寄せている)等と白雨会を結成します。1915年東京帝国大学を卒業し、母校東京学院の教師となりました。1919年には中学関東学院が設立され、初代院長に。坂田は建学の精神であるキリスト教を具体的に表現するために、第一回入学式で「人になれ 奉仕せよ」と告辞し、第一回卒業式では、さらにこれを説明して、「立派な人格を備えた人になれ。吾人の徳は、奉仕によって磨かれるのである」と訓辞しました。以来50年に亘り関東学院の教育・経営に携わりました。
1952(昭和27)年に神奈川文化賞を、1965(昭和40)年には横浜文化賞を受賞。1969(昭和44)年12月16日に召天しました。現在も関東学院は同月同日に召天記念墓前礼拝を守っています。

関東学院の英語名の由来 メービー博士
1910年後半以降、米国では関東学院のことを「メービー・メモリアル・スクール」と呼んでいました。故ヘンリー・C・メービーHenry C. Mabie(1847~1918)博士を記念する名称です。アメリカ・バプテスト・ミッション・ソサエティの1919(大正8)年報告書には、メービーを記念する学校設立提案が次のとおり掲載されています。
「ヘンリー・C・メービー博士の生涯に鑑みて、博士の宣教事業への奉仕を記念する学校を開設することは、まことに適切なことである。アメリカ・バプテスト外国宣教教会理事会では横浜市にこれを開設することを決定した。(中略)横浜市内及び周辺では人口が50万を越えるが、男子のためのキリスト教教育施設が存在しない。ここは教育の機会がまことに大きい。(中略)この学校はヘンリー・C・メービー・メモリアル・スクールと呼ばれることになる。これは男子のための、キリスト教に基づく学校であり、アメリカ・バプテストの側からの国際的な友好の表現である。」
この学校が私立中学関東学院のことです。
また、戦後の関東学院復興、具体的には今日の金沢八景キャンパス土地購入資金のためにこのメービー博士の名のもとで盛んに募金活動が行われました。1945(昭和20)年、金沢八景キャンパス・校舎・施設を購入しましたが、その全資金は、アメリカ・バプテスト・ミッションから無条件で援助を受けました。ですから現在の大学、六浦中学校・高等学校、六浦小学校、六浦こども園が存在するのは、このときの土地取得があってのことと言えます。

旧中学本館(横浜市認定歴史建造物)
1929(昭和4)年に中学本館の献堂式が挙行されて以来、2008年3月までの約80年間、三春台校地(横浜市南区三春台)において校舎として使用されました。関東学院内に現存する最も古い建物であり、1992(平成4)年2月に横浜市の歴史的建造物に認定されました。
設計者はJ. H. モーガン(Morgan)。モーガン設計の建物は、横浜山手聖公会をはじめ、横浜市認定歴史的建造物に多く残されています。また、港の見える丘公園内にある「山手111番館(旧ラフィン邸)は横浜市文化財にもなっています。
横浜大空襲にも耐え抜いた旧本館は、2009年まで現役の校舎として多くの生徒たちを見守りました。その後、詳細な耐震診断を行ったところ、保存修復が非常に困難と判断され、2016年に解体されました。将来的には、旧本館の外観を復元した校舎の建築を計画しています。

関東学院の第3の源流記念碑
「一九一九年一月二七日、ここに私立中学関東学院が開設した。設立者はC・B・テンネー、院長は坂田祐。四月九日、第一回入学式における坂田祐の告辞『人になれ 奉仕せよ』は、関東学院の校訓として受け継がれている。」と刻まれたこの源流記念碑は、2009年に学院創立125周年記念事業として三春台校地に建てられました

「人になれ 奉仕せよ」校訓碑
校訓「人になれ 奉仕せよ」碑は、関東学院各校地にあります。
1918年、私立中学関東学院の初代院長に就任した坂田祐は、その第1回入学の式辞の中で、キリスト教の精神をもって建学の精神とすることを宣言しました。そして、これを具体的に表現するために「人になれ 奉仕せよ」という言葉を掲げました。これが、今日まで学院各校の校訓として受け継がれています。
この言葉について坂田は次のように述べています。
「人になれ……これは私が祈って神から示された言葉であった。諸子は将来学者になり、教育家となり、実業家となり、……政治家になるであろうが、何者かになる前に先ず人にならなければならない。……奉仕せよ……(これは)人のために、社会のために、国のために、人類のために奉仕することである。……キリスト教の教訓をもって人たるの人格をみがき、キリストの愛の精神をもって奉仕することである。」
また、第1回卒業式の式辞の中では次のように説いています。
「人になること即ち人格を完成することはいかに難しいかなである。しかし、実現が極めて困難であっても、それに向かってなされる不断の努力そのものが価値あるのである。……人になれということと、奉仕せよということは離すべからざることで吾人の徳は奉仕によって磨かれるのである。……これは学院の存在する限り主張されるべきものである」(坂田祐著『新編 恩寵の生涯』より)

「人になれ 奉仕せよ」に続く大切な言葉
校訓「人になれ 奉仕せよ」が語る、共生社会に貢献できる人を実現する教育が、関東学院の大きな使命です。この意味するところを理解する上で、坂田祐自らが、校訓にさらに「その土台は、イエス・キリスト也」という言葉を付け加えていることは注目に値するものです。ここに、彼が「私立中学関東学院」という名称に敢えてこだわった理由を見出せるからです。これは、東京中学院初代院長の渡瀬寅次郎が聴いたクラーク博士の言葉、「少年よ、大志を抱け」にも通じるところがあります。クラーク博士の “Boys, be ambitious”には、実は言葉がまだ続いています。その意味するところは、まさに博士の決別の言葉の中にあったと伝えられている“in Christ”です。「イエス・キリストにあって」大志を抱かなければ、本当の意味での大志とはならない、という思いが込められています。坂田は東京学院在学時代に、また一高時代の恩師内村鑑三を通し、その精神を学んでいたに違いありません。関東学院の校訓も、この“in Christ”を補ってこそ、重要な意味を持つのです。

関東学院大学初代学長 白山源三郎
白山源三郎(1898~1985)は、神戸高商から京都帝国大学を卒業後、1927(昭和2)年に関東学院高等学部商科教授に着任、1933年高等商業部長に就任しました。1944(昭和19)年、戦時下の文部省の政策により高等商業部が明治学院に合併することになり、関東学院に高等教育機関を残すためには、工業系学部を設置する以外になく、白山は航空工業専門学校と工業学校設置のため奔走してこれを設立、初代校長になりました。
戦後、航空工業専門学校を工業専門学校に転換し、高等商業部を経済専門学校として復活。これらは学制改革により、大学工学部、経済学部となり大学発展の基礎をつくり、初代大学長に就任しました。そして白山は校訓である奉仕を実践し、校訓を実践するために教育を受けることの必要を説きました。
神戸高商時代には日本を代表する水泳選手としても国際的に活躍し、その後も役員などを務め、本学院のスポーツ振興にも意を用いました。1960(昭和35)年にローマで開催された第17回オリンピック大会役員、1964(昭和39)年の東京オリンピックでは国際水泳連盟委員を務めるなど、永年のスポーツ振興への貢献により1979(昭和54)年には神奈川文化賞を受賞しています。
関東学院の沿革
| 1884 | 横浜山手に米国バプテスト伝道協会により横浜バプテスト神学校創立 (のち東京学院神学部) |
|---|---|
| 1895 | 築地に東京中学院、のち牛込に移り東京学院設立 |
| 1919 | 横浜市南区三春台に中学関東学院設立(東京学院中学部廃止) 初代院長坂田祐が校訓「人になれ 奉仕せよ」を訓辞 |
| 1927 | 財団法人関東学院が組織され、中学部、東京学院神学部・高等学部を併合 (神学部は、のち青山学院に併合。高等学部は、のち旧制専門学校に改組) |
| 1946 | 六浦校地(横浜・金沢八景キャンパス)に旧制専門学校を移転 中学も一時移転 |
| 1947 | 学制改革により関東学院中学校設置 |
| 1948 | 関東学院教会幼稚園(のち六浦幼稚園)設置 |
| 1949 | 学制改革により旧制専門学校を母体として関東学院大学(経済学部・工学部)設置 関東学院小学校設置 中学校高等学校が三春台に復帰し、六浦教室を残す(のち六浦中学校・高等学校) |
| 1950 | 大学に短期大学部(のち女子短期大学)設置 |
| 1953 | 関東学院六浦中学校・高等学校設置 関東学院小学校を六浦小学校に校名変更し、三春台に関東学院小学校設置 |
| 1959 | 大学神学部設置(1973年廃止) |
| 1962 | 大学院神学研究科設置(1973年廃止) |
| 1966 | 大学院経済学研究科・工学研究科設置 |
| 1968 | 大学文学部設置 |
| 1976 | 関東学院野庭幼稚園(のちのびのびのば幼稚園)設置 |
| 1984 | 関東学院創立100周年記念式典挙行 |
| 1986 | 横浜・金沢文庫キャンパス開校(のち文学部が移転) |
| 1991 | 湘南・小田原キャンパスに大学法学部設置 |
| 1993 | 大学院文学研究科設置 |
| 1995 | 大学院法学研究科設置 |
| 2002 | 女子短期大学を改組し、大学に人間環境学部設置 |
| 2004 | 法科大学院設置 |
| 2009 | 関東学院創立125周年記念式典挙行 |
| 2012 | 関東学院のびのびのば保育園設置 認定こども園関東学院のびのびのば園開園 |
| 2013 | 大学工学部を理工学部と建築・環境学部に改組 横浜・金沢八景キャンパスに大学看護学部設置 関東学院六浦保育園設置 認定こども園関東学院六浦こども園開園 |
| 2015 | 大学文学部を国際文化学部と社会学部に改組 大学人間環境学部を人間環境学部、教育学部、栄養学部に改組 |
| 2016 | 大学人間環境学部を人間共生学部に改組 |
| 2017 | 大学経済学部を経済学部と経営学部に改組 大学法学部を横浜・金沢八景キャンパスへ移転 大学院看護学研究科設置 湘南・小田原キャンパスに国際研究研修センターを設置 |
| 2023 | 横浜・関内キャンパス開校 大学国際文化学部、社会学部を横浜・金沢八景キャンパスへ移転 大学法学部、経営学部、人間共生学部 コミュニケーション学科を横浜・関内キャンパスへ移転 |
初代校長 A・A・ベンネット
初代院長 坂田 祐
校訓碑